鳴尾村の義民のお話

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枝川と申川【西宮フォト】

2020年4月8日

先日、武庫川の支流「枝川」跡地の写真を掲載しましたが、この辺りには石碑がいくつか建てられています。

北郷公園の義民碑

こちらの「北郷公園」に石碑があります。

こちらの石碑です。

「義民碑」と彫られていますね。

説明書きの石碑もありました。

こちらです。

「北郷公園」だけでなく、少し南にある「八ッ松公園」にも同様の記念碑があります。

八ッ松公園の義民顕彰碑

こちらは「義民顕彰碑」と書かれています。

さらにこの公園の隣の「浄願寺」さんにも……

浄願寺の北郷開樋殉難者之碑

こちらが浄願寺さんです。

こちらは「北郷開樋殉難者之碑」という石碑で、江戸時代に建立されました。

「義民」のお墓として西宮市の文化財になっています。

「義民」とは民衆の為に一身を捧げた人の事です。

鳴尾村の「義民」とは一体何なのでしょうか。

天正北郷樋事件

その昔、鳴尾村では旧枝川を農業用水として使っていました。

もちろんすぐ隣に本流の武庫川があるのですが、武庫川は天井川である事と、よく氾濫していた暴れ川だった事で、農業用水としては使えなかったようです。

ただ武庫川ほどではありませんが枝川も天井川だったので旱魃があるとすぐに干上がってしまい、決して安定した用水ではありませんでした。

そんな中、天正19年(西暦1591年)に旱魃があり、枝川は干上がってしまいます。

村の人は鳴尾村の危機を救う為に、枝川を隔てた隣村の瓦林村に水を分けて欲しいと頼みました。

瓦林村の水源だった「新川」にはまだ水があったのです。

しかし水の確保は瓦林村にとっても死活問題で、結局この頼みは断られてしまいます。

そこで鳴尾村の農民は最終手段に出ます。

干上がった枝川の下に穴を掘って樽を並べ新川に繋げ、水を盗んだのです。

当然瓦林村にはすぐにばれ、怒った瓦林村と鳴尾村の間で抗争が起きました。

これが「天正北郷樋事件」です。

その後、両村は大坂奉行所に呼び出され裁かれる事になります。

裁きの場で奉行の一人である片桐且元が重罪覚悟で水を盗んだ鳴尾村の農民に尋ねました。

「お前たちは水が欲しくて命は欲しくないのか?」

すると農民はこう返答しました。

「はい、私たちは村の人々の為に死を覚悟して水を引きました。命より水が欲しいです。」

この返答に感動した奉行衆は何とか農民の命を助けようとしたものの法を曲げる事は叶わず、結局瓦林村から26名、鳴尾村から25名が処刑される事になりましたが、それと引き換えに鳴尾村の水利権が認められ、鳴尾村は救われました。

この時処刑された農民が、村を救った「義民」として今も称えられているのです。

実はこの時掘った水路の跡と思われる場所にもモニュメントが設置されています。

これは北郷公園の前の甲子園筋(旧枝川)の写真です。

この細い道が、新川から引いた水路だったと言われています。

この道を抜けたところに「樋門跡」のモニュメントがあります。

こちらです。

「平成16年4月」と書かれていますので、もちろん後から作られたモニュメントでしょうね。

ちなみに実際に水を引いた新川はここではなく、もっと西にあります。

枝川ができるまではおそらく新川水系の水が鳴尾村まで来ていたのが枝川が出来た事によって遮断されてしまい、鳴尾村の水利はとても不便になっていたのでしょう(北郷公園の石碑にもそのような事が書かれています)。

鳴尾村の農民からすると「水を盗む」というよりは「水を取り戻す」という思いだったのかも知れません(推測ですが)。

今となっては詳細は分かりませんが、鳴尾の方々にとって義民がいかに大きな存在であるかがよく分かりますね。

「天正北郷樋事件」や「鳴尾村の義民」については様々なサイトでより詳しく書かれていますので、もっと詳しく知りたい方は下記のサイトもご覧下さい↓

(参考)

エココミュニティ情報掲示板

阪神アルク

義民のあしあと

ちょっと歴史っぽい西宮

落人の夜話

しかけや六べえ